二児と美容師と小説と私

そんなことより私の小説読んでください

保育園生活が終わる話

通算5年通った保育園生活が今日で終わる。

長かったようであっという間だった5年の記憶は、こうしている今にもどんどん薄れていき、新しい記憶によって上書きされていく。

初めての保育園探しは苦労の連続だった。
娘の5才児クラスはどこの保育園でも多少の空きがあるが、息子の0才児クラスは希望の園で100人以上の待ちがあった。現時点で認可外に預けている人が優先になるため、保育園が見つかってから仕事先を探す人には順番が永遠に回ってこない。
だからといって認可外保育園に空きがあるかというと、こちらも近所の園は全て定員オーバー。仕方なく一駅先のマンションの一室を借りた認可外の園に通わせることとなった。
5才の娘も近所の園に空きはなく、息子とは反対方向の一駅先の園に決めた。
朝仕事に行く前に弁当を作り(認可外の園は基本持参の弁当)、二駅分はなれたそれぞれの園に送り届け、仕事に向かう電車に乗った時点でもうすでにヘトヘトだった。
認可外の園が毎日ブログに載せてくれる息子の写真を帰りの電車で確認する。
本当は一緒にいたいのに、経済的に働かなくてはいけない現状をうらみ、知らない場所で苦笑いする息子の写真をブログに見つけ胸が締めつけられた。
その後娘は1度、息子は2度転園し、最後まで通うこととなる近所の園にようやく落ちついた。
仕事を終え、駅を降り、疲れきった重い足で坂を下ると保育園が見え、こどもたちの歌声が聴こえてくる。
「ぼくは きみの こえがすき
はなす わらうこえがすき
いろんなこえが あるなかで
きみのこえがいちばん すき」
その声のなかに自分のこどもがいると思うとホッとして、園の入り口のまえで泣いてしまったこともあった。

二人が同じ近所の認可園に通えるようになってから、今の職場に勤めはじめた。
当時勤めていた店舗の店長は50代未婚女性で、とにかくいじわるだった。
こどもが熱を出して休むと、「予約客や他のスタッフに迷惑がかかるからできるだけ前日に休むかどうか連絡をくれ」と怒られた。
さっきまで元気だったのに、突然熱を出すのがこどもという生き物なのに。
娘が小学校に入ると、学校が二週間前に平日の行事を知らせてきた。
気を使いながら店長に休みの変更をお願いすると、「決めた休みの日に用事は全て済ませてください」とキレられた。
いじわるな店長のせいでついには胃潰瘍になった。娘は6才、息子は2才だった。
子育てしながら働くのは、本当にしんどい。
ただでさえしんどいのに、いじわるな店長のせいで余計にしんどかった。
それから私には幼い子を育てるうえでもうひとつしんどい事情があった。
それは私自身の過去のせいである。
幼少期、家庭環境が最悪だった。
ろくに食事も与えてもらえず、昼も夜も放置され、時々殴られたりもした。
今なら確実に通報され、私は保護されていただろう。
そのような記憶が、子を通して常によみがえった。
自分がこれくらい幼かったとき、あんなことをされた、あるいはしてもらえなかった。
こどもという存在はこんなにも可愛い。なのに母はなぜあんな仕打ちをしたのだろう、そうか可愛くなかったからか。邪魔だったからか。
そんなことを考えたくなくても考えた。子を育てながら、子の成長をなぞるように自分の幼少期をふりかえりつらい気持ちになった。
疲れもあったと思う。ホルモンのバランスの仕業かもしれない。けれど私は、大切にこどもを思えば思うほど、自分が大切に育ててもらえなかったことをいやというほど思い知ったのだ。

先日息子の卒園式を終えた。
頼もしく成長した息子が一生懸命こらえていた涙が、歌の途中であふれてしまう姿をみて、私も泣いてしまった。
娘も泣き、夫も泣いた。
家族みんなで感動した。
ああなんてしあわせなんだろう。心の底から思った。
こどもたちが大好きだ。子のためなら命も簡単に捧げられる。こどもたちは私にとって宝だ。
こどもを産んでから時々顔を出しては傷口の場所を教えてきた私のなかの悲しいこどもは、ここのところ現れなくなった。
悲しい記憶をゆうに塗り替えるほどの娘と息子の可愛さが、私を癒してくれたのだろう。
私はようやく、私のなかの悲しいこどもとさよならできそうだ。

子育てはまだまだつづく。
保育園生活を終えたとはいえ、ステージ1のラスボスを倒したにすぎない。
だけど今はひとまず、「お疲れさま、ここまで頑張ったね」と自分を誉めてあげたいと思う。


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保育園の桜